2003年6月1日

体力健康新聞

 発行 合資会社 体力健康新聞社



■ クラブの履歴を掘り起こす「クラブの履歴書」は、本誌購読クラブを対象に取材していま
   すが、今回は「特別版」として、閉鎖した
「多摩川スイミングスクール」を取り上げました。
   歴史を知らない、若い「指導者」に、是非、読んで欲しいものです。


主幹・鶴谷 道広



特別版    

 クラブの履歴書 B


「伊藤義子」と「波多野勲」の出会いから
「民間第1号」は、36年の歴史を刻む





  多摩川スイミングスクール

神奈川県 川崎市 中原区 上丸子山王町 1−1445



「今日のスポーツクラブのスタートは?」と聞かれれば誰もが「多摩川スイミングスクール」と、答える事だろう。
しかし、それも
過去の日本の歴史を知っていればの事。
若い世代には、おそらく歴史を語ってくれる先輩を持たなかった人達が、多く居るはず。
厳密に言えば代々木オリンピック:サブプールを利用して、ジュニア指導の為に設立された「代々木スイミングクラブ」が有るが、
自前の施設を持って始めたのは、紛れも無く「多摩川スイミングスクール」が、第1号だ。
昭和42年4月オープンだが、36年の歴史を刻んだ、その草分けも4月30日に閉鎖された。
                                                           (敬称略)
       

■ 今日の業界の礎を築く ■

東京オリンピックの「水泳日本」の惨敗で、昭和40年から41年にかけて各地でエイジグループの育成を目指したスイミングスクールの誕生が相次いだ。
公共施設では、川口市営、国立競技場、代々木国立、愛知県体育館、名古屋スポーツガーデン、広島県営、八幡市営の7か所が有り、学校関係では東大と修徳中の2校が室内プールでエイジグループ指導をしていた。

そして10か所目として、昭和42年4月に誕生したのが
「多摩川スイミングスクール」(以下、多摩川SS)だった。

多摩川SSは川崎市内の
「上丸子幼稚園」内に建坪約、1千平方m、25m×5コースの室内プールで、民間施設の第一号。

日本で初めての水深可動式プール(一部)、ジム、サウナ、マッサージ室を配し「お母さんの美容と健康」の為の婦人コース「下腹の出てきたパパ向き」の体力作りコースなど水泳を基本にした統合的な体力作りクラブとしてスタートした。

ちなみに、月会費は、小学生1,600円、中学生2,000円、高校生2,500円、大人向きの美容、健康コースは、3,000円だった。

施設の狙いは東京オリンピックの惨敗を受けての選手育成。
「アメリカを追い越せ」が命題だったから、あくまで子供達が中心のスクールだった事は窺い知れる。
正に今日のスポーツクラブの形をこの時代に築き上げていたのだ。
そして、この指導の先頭に立ったのは
「波多野 勲」(当時35才、故人)だった。


■ あくまでも理想は高く ■

オーナーは「伊藤義子」川崎市内に3つの幼稚園を経営していたが、実弟である高校水泳界の名門,佐伯・鶴城高校
「岡田正一」
監督から「水泳が、子供達の体力作りに役立つ」と、言う話を聞いていた。
それ迄「日本鋼管・水泳学校」でエイジグループの育成に努めて来た「波多野」は、日本で初めて専任コーチによる専用の室内プール、そして独立採算の経営を目指していたが「伊藤」がそれに協力を申出た事で日本初の民間施設が誕生した。


900人の園児が正課として、週3回参加する事で「波多野」としてもエイジグループの指導者にとって夢であった「幼稚園からの水泳指導」が実現したのである。
「波多野」がプロコーチ第1号ならば、その下についた
「四本博美」(前、鶴見女子校監督・現姓、佐藤博美)は女子、プロコーチ第1号とでも言えよう。

「アメリカを追い越せ」この大きな目的を達成するには、やはりコーチの熱意と質の高い指導が必要となる。
その為には十二分な生活保障が第1の条件だ。


サブコーチでも「月給8万円」と言う線を考えている。
「これで経営が成り立つ事を実証すれば、本気でスイミングクラブを手掛ける人も出てくるでしょう」
と、波多野は当時の「水泳競技マガジン」に書いている。


しかし実際のところは「理想は高かったんですが、3万円でした・・・」と、笑いながら「佐藤」は、証言している。

全ての面で今日のスイミングクラブの土台を築いた「波多野」彼の研究熱心さは国内産の「全自動プール式温水器」の第1号機をも生み出した。
この装置で冬場でも温水で泳げる様になり、1年を通して基礎体力作り水泳指導が可能になったのである。


■ 残したものは大きい ■


3,500万円の設立資金は全額が「伊藤」個人の出資だった。
「もし、経営的に失敗しても幼稚園の仕事の延長だし、園の施設として残るものですから・・・」(伊藤)
と「多摩川SS」は、船出した。

当時のスタッフ
「渡辺武洋」(仙台市在住)は「プールもなにも出来ていない41年12月6日に、発表式をしたら、
すぐに会員は集りました。泳ぐ所が無いから多摩川の土手を走ったり、日曜日は本郷の東大プールを借りて泳いだ。
日曜コースには山梨や熱海からも来ていた会員さんも居ましたよ」と、当時の人気ぶりを証言する。

「水が見えない」程の、押すな、押すなのプール。
「5コースに、180人も入っていました」と言うから、わずか3年で銀行の借金を返済できた。

その後に相次いだスイミングスクール設立は、この「多摩川SS」の成功が有ってのものだった事は言う迄も無い。

「スイミングスクール」から「スポーツクラブ」へ、そして「フィットネスクラブ」へと世の中は変化したが、その変化に対応できず会員減少が続いた。

   「原 秀章(バタフライ)」 「石井英範(自由形)」 「柳館 毅(個人メドレー)」 「吉原一彦(自由形)」
                  (4名共、TSS出身、オリンピック日本代表選手)


など、日本を代表するトップスイマーを育てた「多摩川SS」も最後は、500人の会員も居ない状態だったと言う。

4月29日、閉鎖を翌日に控えて、かつての仲間が「お別れ会」を同施設で開いた。

集った、約100人の中に「多摩川SS」の草創期を支えた
「長谷川武雄」(現・川崎市水泳協会会長)も居た。
「波多野さんが多摩川SSを辞める頃(昭和44年)2,500人の会員を5人で回した。朝から晩迄、9時間から10時間、プールに入りっぱなし、懐かしいですね」と、当時の面影そのままの室内プールを見回した。

施設は消えたが「多摩川スイミングスクール」の名前は、これまで在籍していた会員さんが「マスターズの登録クラブ」として残して行くと言う。

1つのクラブの歴史は終わったが、残したものはあまりにも大きい。


               

ご紹介致させて頂きました上記の記事は、2003年「体力健康新聞」6月号の中で紹介されたものです。
ホムページ掲載にあたり「体力健康新聞社・鶴谷道広さま」の全面的なご協力の基、皆様にご紹介できる事になりました。
「多摩川スイミングスクール」の「歴史」「あゆみ」を知る事が、日を負って困難になる状況の中、大変貴重な「記事」として、
このホームページに残せた事を、この場を借りて心より感謝の意を表したいと思います。

「有難うございました」


サイト管理人 篠田 淳